はるか東方から馬蹄の音を響かせて、第三の帝国がやってきた。ティムール帝国である。
ゴールデンオルドは内乱とキリスト教徒の攻撃という混乱のなかにあった。カスピ海東のサマルカンドに居を構えたティムールは、疲弊するゴールデンオルドに狙いを定め、攻撃した。ウラル山脈西方の部族たちは皆、ティムール帝国に服属した。ゴールデンオルドの崩壊がはじまった。
大王没後、彼の後継者達には先代ほどのカリスマはなく、統治の継続は困難をきわめた。ミンダウガス家の血族たちは、王が公爵位を独占していることに不平不満を募らせていた。このため王は、血族たちに公爵領を分配しなければならなかった。キエフ、トヴェリ、ウラジミルスズダリ、ニジニノヴゴロド、ガリーチ、チェレミサなどがミンダウガス家の親族に分配された。 こうして形成された藩塀たちは、しかし王の統治にいっこうに満足しなかった。彼らはリトアニア=ルシタニア王国のなかでさまざまな派閥をつくっていった。王権の制限をはかる派閥、公爵位を簒奪する派閥、王の暗殺を狙い派閥。こうした派閥の領袖は、いずれもミンダウガス家の親族たちだった。彼らは静かな内乱をくりひろげていた。実際に反乱を企てた人物もいた。王の従兄弟のxxはチェレミサ地方の伯爵だったが、王位簒奪をはかる陰謀を企てていた。王はあわてて彼の逮捕を命じたが、失敗し、彼は蜂起した。この反乱はすぐさま鎮圧され、彼はその後十五年以上も獄につながれることになる。 こんな具合で、王の立場はいよいよ窮した。王は封臣の圧力に譲歩して、継承法を選挙制に変更せざるをえなかった。これは危険な譲歩だった。というのも、リトアニア王として選挙される継承者と、ルシタニア王として選挙される継承者が別々の人物になる可能性がでてきたからだ。東方のティムール帝国が躍進を続け、ゴールデンオルドのロシア領をほとんど併合してしまうと、不思議なことに、こういった傾向はいっそうつよまった。モンゴル帝国の圧力が崩壊したことにより、外敵に対抗するために内で結束するというモチベーションが低下してしまったためだと思われる。 王の息子二人はいずれも公爵位を与えられていたが、封臣たちには人気がなかった。封臣たちは、リトアニアとルシタニアで別々の人物を後継者に選出しようとしていた。リトアニア王位の継承順位第一位は、現在獄につながれている反乱者xxになっていた。ルシタニア王位の継承順位第一位は、ルシタニアの大貴族xxであった。王国は分裂の危機に陥った。王は、これを止めるすべをもたなかった。
#リトアニアとルシタニアは分裂する。
1403年、大王の後継者が死ぬと、リトアニア王国とルシタニア王国は分裂した。ティムール帝国はロシアとペルシャを併合して、いよいよ勢力を増していた。キリスト教世界に危機が訪れていた。
1417年、モスクワ、ノヴゴロド、そしてヴォルガを征服したティムール帝国は、ルシタニア王国を併合することを企図した。服属を要求する使者がルシタニア宮廷を訪れたが、ルシタニア王はこれを拒否した。ただちにティムールの騎馬軍団が出動した。ティムールの騎兵は総勢60000はくだらなかったが、先遣隊としてまず20000ほどがルシタニア領に侵入した。ルシタニアの騎士たちは従者をつれて総勢22000の軍でこれを迎えうった。xxで会戦がおこり、ルシタニア軍はティムール軍に少なくない打撃を与えることができたが、自身も壊滅した。 ルシタニア王はリトアニア王に援軍を請うてきた。キリスト教世界の危機に、リトアニア王は拒否することはなかった。リトアニア軍30000、バルト傭兵団20000、そしてチュートン騎士団15000がルシタニアに派遣された。ティムールの先遣隊は、リトアニア軍の包囲攻撃にあって壊滅した。しかしリトアニア軍のうけた消耗も少なくはなかった。激怒したティムールは40000の後詰めを投入した。世界最強の騎馬軍団の前に、リトアニア軍は後退せざるを得なかった。 ティムールはルシタニアの各城々を包囲し、ルシタニア王に圧力をかけた。ルシタニア王はリトアニアに亡命した。リトアニア王は、野戦では最強のティムール軍団と正面からたたかうのは愚策であると判断し、ティムールの主力をうまく避けつつ、ティムール領を逆に占領して、戦勝点で不利にならないように工夫した。ティムールがルシタニアの城を一つ落とすごとに、リトアニアはティムールの城を一つ落として、戦勝点を拮抗させた。 しかしそれでは埒があかなかった。いくさは長引いた。夏が過ぎ、冬が去り、そうして季節が三度めぐりめぐった。1420年になっていた。リトアニアもティムールも、相次ぐ攻城戦で消耗していた。一旦壊滅したルシタニア軍はふたたび戦力を再編成し、20000ほどの軍隊を用意できるようになった。数的優位が確保されたので、リトアニア王はルシタニア王とともに反転攻勢を試みることにした。ノヴゴロドの平原を焼き払っていたリトアニア軍とチュートン騎士団が南下し、ルシタニア軍と合流、ティムールとの戦線のもっとも弱い環だったxx地方のティムール軍18000に総攻撃を仕掛けた。数的不利をこうむったティムール軍は、おもわず退散した。追撃して殲滅した。これは偉大な勝利だった。1420年のFebraryのことだった。 ティムール軍はもう30000を下回っていた。これに対して、リトアニア・ルシタニア連合軍は50000ほどの戦力を用意できた。なるほど、ティムールの騎馬軍団は世界最強である。しかし、戦いは数である。1420年の雪解けを待って、リトアニアとルシタニアの連合軍はティムールに総攻撃を仕掛けた。ティムールは潰走した。1420年April、ルシタニアとティムールのあいだで白紙和平が締結された。カトリック世界はティムール帝国に勝利したのである。
#
ティムールの騎馬軍団の壊滅は、このびっこのハンの常備軍の壊滅を意味していた。暴力でもって異民族を服従させていたティムール帝国に、ほころびが見られるようになった。軍が壊滅したいまこそ好機と、モンゴル人たちやロシア人たち、イスラム教徒たちが帝国の各地で武力蜂起を試みるようになった。ティムール帝国は敗戦によって内乱に陥ったのである。
ティムールの脅威が後退すると、ミンダウガス家のひとびとはふたたび内乱に陥った。 リトアニア王国は相次ぐ反乱に疲弊した。これに目をつけたルシタニア王は、陰謀によってリトアニア王位をリトアニア王から簒奪した。リトアニア王はリトアニア公となり、ふたたび統一されたリトアニア=ルシタニア王国の家臣となった。 リトアニア=ルシタニア王国は、内乱に陥ったティムール帝国にたびたび遠征を行い、ロシア西部の少なくない部分を切り取った。彼らがロシア皇帝となる日は近いだろう。