開始時のシチリア国王はシャルル1世。 ホーエンシュタウフェン朝を滅ぼした人物ながら能力値は控えめである。 生存している子供は息子1人、娘二人。 領土はイタリア南部に加え、アンジュー公領、プロヴァンス公領、アカイア公領を領有している。
そこそこな顧問たち
シャルル「アラゴン王国に奪われたシチリア奪還に出撃する」 大臣「アラゴン王国の勢いは盛んで、勝利することは難しいでしょう」
アラゴン国王ペーラ3世 子沢山
シャルル「ラテン帝国再興の方はどうなっている?」 大臣「教皇庁にうちうちに尋ねてみたところ、カリオポリスとトラキアを領有し、ビザンツ帝国を滅ぼせば皇帝位を認めると」 シャルル「では、かねてからのビザンツ帝国征服計画は続行できるのか」 大臣「衰えたといえビザンツ帝国はいまだ強大です。シチリア喪失で失われた国力を回復させるのが先決かと」 シャルル「ままならんな」
ビザンツ皇帝ミハイル8世 魑魅魍魎がうごめく宮廷で鍛えられた陰謀能力を持つ
国王がまず取り掛かったのは直轄領を宮廷にいた臣下に配ることだった。 その中でも、ラテン帝国最後の皇帝の遺児であるフィリップには特に目をかけ、アカイア公爵号を与えている。
アカイア公フィリップ 能力はあまり良くない
領土の整理を進めていく中、1982年4月8日、教皇マルティヌス2世により第10回十字軍が宣言された。 イスラム勢力の近年の伸張も懸案事項の一つであり、シャルルは参戦を表明した。
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酒浸りの生活を送っていたが、突然神の啓示があったと主張し、十字軍を呼びかけた。
シチリア王国軍は、エルサレムの地で十字軍の主力として活躍し、かの地を支配していたバフリー朝の軍を幾度も打ち破った。
その働きもあり、開戦から2年経った1984年4月に十字軍の成功が宣言され、エルサレム王国が失地を回復した。 しかし、シャルルは領土が報酬として貰えなかったことの不満を漏らしていたと大臣の日記には残されている。
その直後、スンニ派カリフはエルサレムへのジハードを宣言した。
しかしながら、ムスリム諸侯の支持が得られなかったからか、数か月後にはジハードの宣言は取り消されていた。 そのことを聞いたシャルルは、興味なさげに頷くのみだったと言われている。
十字軍での勝利で自信を取り戻したシャルルは、ギリシャでの勢力拡大をもくろみ、ベネチアへの宣戦に踏み切った。
最初の宣戦布告
ジョヴィナッツォの戦いで勝利したシャルルは、そのまま請求地を占領し、勝利した。
1291年6月、次の世代への継承を円滑にするために、継承法を選挙制へ変更する。 シチリア王国のde jure内には公爵がおらず、国王の一存で後継者を指名できる状況であった。
娘が嫁いだ先のハンガリー王国は、Golden Hordeやその元封臣との戦争に明け暮れていたが、 シャルルは、大草原での兵の消耗を恐れ、参戦を表明するだけで出兵は行わなかった。
ラテン帝国位への正当性を確保するため、シャルルの孫とラテン帝国請求者フィリップの娘(母はシャルルの次女、故人)の婚約を執り行わせた。
アカイア公長女キャサリン traitがひどい
廷臣から近親婚ではとの声も上がったが、教会は特に反対せず、したがってそのまま婚約の話が進められた。
シャルルはさらなる勢力拡大を求め、アンコーナ・ジェノバと、商業共和国に相次いで宣戦布告を行った。 商業共和国に狙いを定めたのは、単にclaimの都合がついたからである。
どちらの戦争も同盟国を呼び出さずに、難なく勝利した。 アンコーナはこれにより滅亡することとなる。
大臣「戦勝をお祝いしたいところですが、悪い知らせが入ってきています」 シャルル「申せ」 大臣「同盟国ハンガリーにて、派閥の要求で国王がビザンツ皇妃に交代し、かの地がビザンツ帝国の支配下に入った模様です」
皇帝が代替わりしていた
シャルル「何だと」 大臣「ビザンツは、アナトリアへの勢力拡大の裏でうまいことやってのけたようです」 シャルル「このままでは手が付けられなくなる。すぐ元帥を呼べ、兵を出す」
1296年10月、こうして長く続くことになる対ビザンツ攻勢の幕が明けた。
だが、戦争の終結を待つことなく、1298年5月にシャルルは72歳で崩御した。 彼の強欲な面は語り草となっており、領民にはあまり好かれていなかったことが伝えられている。
王位は長男のシャルル2世が継いだ。