AAR/カプアの女たち

第1章 シシリー王リシャール『敬虔王』とその女たち(1066~1142)

はじめに 

 皆様,はじめまして。私はカプア伯爵夫人,フレデセンデ・ド・ハウテヴィーユと申します。不束者ながら,この章の語り手を務めさせていただきます。  わたくしの夫,カプア伯爵リシャール・ドレンゴッドは,このAARにおける初代の当主ですが,イタリア中部のカプア州を領する一介の伯爵に過ぎませんでした。夫は「ケチな出納係」と呼ばれ,金銭感覚の鋭さを自慢にしていましたが,実際には管理9とそれほどでもありませんでした。その他,勤勉で勇敢といった美徳もありましたが,好色をいう悪癖も持っており,女癖の悪さには私もかなり悩まされました。  皆様にカプアと申しますと,カプリ島のイメージと被るせいか,いかにも過ごしやすい風光明媚な土地を思い浮かべられるようですが,中世のカプアは昼も夜もサラセン人の海賊に脅えるばかりで,安心して過ごせるような土地では全くなかったのでございます。カプア伯爵家も弱小の領主で,隣接するローマ教皇様の保護と,南イタリアでは随一の勢力を誇るアプーリア公爵家との同盟がなければ,国家として存続していくことすら困難にあったのでございます。  かくいう私も,アプーリア公爵であるハウテヴィーユ家の出身であり,政略結婚のため夫に嫁いだのでございます。

1 カプア伯爵リシャール・ドレンゴッドの治世(1066~1075)

1-1 長男ヨルダンとオリエル・デ・カプアとの結婚

 このような状況の中,わたくしの夫であるカプア伯爵リシャール・ドレンゴッドは,まずカプア公爵となって隣接するナポリ伯爵家を打倒し,カプア地方を統一することを最初の目標に掲げたのでございます。カプア公爵領に属するのはカプアとナポリの2州しかないため,カプア州を領するだけでもカプア公爵を名乗る資格はあり,カプア公爵を名乗れば隣接するナポリ州を攻め取る大義名分は得られるのでございます。  しかし,夫の目標には2つ問題がございました。1つは,ライバルであるナポリ伯爵家もおそらく同様のことを考えているため,共に1州しか持たない同等の領主であるナポリ伯爵家を,当家がどうやって打倒するかということ。もう1つは,カプア公爵を名乗るために必要な黄金200をどうやって貯めるかということ。カプア州には1つの教区と2つの都市があり経済的には比較的恵まれているとはいえ,当時のカプア伯爵家には,黄金200を貯めるにはおそらく10年くらいかかる程度の収入しかなかったのでございます。  夫も自分の代で目標を達成するのは難しいと分かっていたのか,長男ヨルダンの教育係を交替して家令向きの教育に切り替え,とにかく後継者の管理能力を重視する方針を採ったのでございます。  1067年1月2日,長男のヨルダンが成人に達すると,夫はヨルダンの妻にオリエル・デ・カプアを選びました。  オリエルはカプア伯爵家の廷臣で,カプア地方の下級貴族の出身に過ぎませんでしたが,天才と称される生まれついての才女であり,「経済の錬金術師」と呼ばれる管理の手腕(管理18)のほか,忍耐,勤勉,謙虚といった素晴らしい美徳も持ち合せており,ヨルダンの教育係も務めておりました。  「とにかく世の中は金である」という夫の持論に照らせば,いずれカプア伯爵家を継ぐことになる息子ヨルダンの嫁に相応しい人物は,生まれは低くとも彼女以外には存在しないのでございました。  そして1070年6月27日,オリエルは待望の長男を出産し,夫とわたくしの初孫にあたるこの子には,夫と同じリシャールの名が与えられました。  この子こそ,後のシシリー王リシャール1世『敬虔王』となった人物であり,後世の年代記にはオリエルがこの子を産んだとき,聖母マリアから「あなたの子は将来帝王となる旨の啓示を受けた」などと描かれることになりますが,当時は夫やわたくしを含め,誰もこの子の数奇な運命を想像だにしなかったのでございます。

1-2 長子相続制への変更とドレンゴット家の不幸

 また,夫のドレンゴット家は代々多産の家系であり,1州しか領しない伯爵家の割には,夫もいちいち覚えられないほど多くの親族を抱えていたのでございます。夫とわたくしの子供にも,長男ヨルダンをはじめ5人の子がおり,分割相続制のもとでは,仮に夫が領土を増やしても相続のたびに領土が分割されてしまうおそれがありました。  それを恐れた夫は,長男ヨルダンに息子ができたのを契機として,重大な決断を下します。1071年9月26日,夫はカプア伯爵家の相続法を改正し,従来の分割相続制に代えて長子相続制を採用したのでございます。長子相続制であれば,領土が増えても相続により領土が分割されることはなく,カプア伯爵家の領土はすべて長男のヨルダン,孫のリシャール,そしてその子孫へと円満に引き継がれるのでございます。  しかし,夫のこの決断は,当然ながら親族たちの大反発を招かずにはいられませんでした。しかも夫が長子相続制を布告したわずか2箇月後の1071年11月15日,長男のヨルダンはわずか20歳の若さで死去。何者かの犯行が疑われましたが,医師の見立てではあくまでも自然死ということでございました。  これに伴い,わずか1歳の孫リシャールが夫の後継者となり,夫は何とか孫が成人するまで自分が頑張ろうと決意したのですが,残念ながら夫のその思いは神様には通じなかったのでした。  1075年6月15日,私の夫リシャールは冷酷な暗殺者の凶刃に斃れました。その犯人は今でも分かっておりません。こうして孫のリシャール・ドレンゴットは,わずか4歳でカプリ伯爵家を継ぐことになり,生母のオリエルが摂政となったのでございます。

2 リシャールの少年時代(1075~1086)

 幼くしてカプア伯爵となったリシャールは,生母であり摂政でもあるオリエルの教育を受けるようになったのですが,どうやら小さい頃から途方もない野心を秘めており,必ずしもオリエルの言いなりになる子供ではなかったようでございます。社交的で親切,慈善といった美徳も備えていましたが,一方で好色という夫の大罪も,誰からともなくしっかりと受け継いだのでございます。  その一方,カプア伯爵家をめぐる情勢は悪化の一途を辿っておりました。1076年には,わたくしの実家であるアプーリア公爵ロベールがシシリー王を名乗り,シシリー王はカプアを攻撃する大義名分を有するため,カプア伯爵家は新たなシシリー王家に従属するかどうかの決断を迫られることになりました。  さらに,1078年には,ナポリ伯爵家がカプアの「ドゥークス」を名乗りました。亡き夫は,収入を増やすためカプアの城砦村と城砦町を整備し,それからカプア公爵を名乗るための資金を貯めるという方針を採ったのですが,ナポリ伯爵家はこれと異なり,真っ先に称号を獲得する戦略に出たのでございます。なお,ナポリ伯爵家は当家と異なり,ギリシャ人であり正教会を信仰する家柄であったため,名乗った称号もカプア公爵ではなくカプアの「ドゥークス」でございます。  このようにカプア伯爵家が対外的圧力にさらされ,家中でも摂政オリエルの地位を奪おうとする陰謀が絶えない中,オリエルは次第にストレスに苦しむようになり,ついに1082年11月23日,オリエルはわずか12歳のリシャールを残し,天に召されてしまったのでございます。医師の見立てによれば,死因は「過度のストレス」ということでございました。

3 若きリシャールの躍進(1086~1113)

3-1 リシャールの成人とカミーラ・デ・ルナとの結婚

 そのような身内の不幸に見舞われながらも,リシャールは無事に成人することができました。管理21で「経済の錬金術師」を持つ,おそらく亡き夫なら「まさに理想的な君主」と評する人材に育ったのでございます。  成人したリシャールは,直ちに諸国から結婚相手を選び,その結果ジェノヴァ州のルナ男爵領を治める,女男爵カミーラ・ディ・ルナに求婚したのでございます。求婚は受け入れられ,カミーラの成人を待って1086年11月22日に正式な結婚が成立致しました。  カミーラはリシャールと同じ1070年生まれで,明敏な頭脳と管理17というなかなかの管理能力を備えておりました。家格の低い男爵家との結婚ではありますが,嫁には家柄ではなく才能と管理能力を重視するというのが当家の一貫した方針であり,また野心家である若きリシャールは,カミーラと結婚すれば,自分の子孫がジェノヴァを手に入れるとき役立つという途方もない野心を秘めていたようでございます。  カミーラは,1089年1月12日に長男ヨルダンを出産したのをはじめとして,リシャールとの間に合計7人の子供をもうけ,また政務面でも夫を助け,妻としての役割を完璧に果たしたのでございます。

3-2 カプア公爵位の簒奪とナポリ州の奪取

 私自身は,曾孫ヨルダン誕生の報に喜びながら,1089年6月14日をもって天に召されましたが,神様の意思により,この後も我が孫リシャールの年代記を語らせて頂きます。  成人したリシャールの計算によれば,カプア公爵位を簒奪するのに概ね黄金200,その後ナポリ伯爵家を打倒するのに必要な傭兵を雇うのに概ね黄金100が必要であり,1091年になって必要な黄金300がようやく貯まったのでございます。  リシャールは1091年5月2日,ナポリ伯爵ヨアネスからカプア公爵位を簒奪し,直ちにナポリ伯爵家に宣戦布告。リシャールが雇ったカタロニア傭兵団の活躍により,その年の8月4日には早くもナポリ伯爵家を下したのでございます。祖父の代から合わせて25年もの準備期間を要したにもかかわらず,戦争自体は短期間であっけなく終結致しました。  これによって,ナポリ伯爵家はカプア伯爵家の配下となりましたが,リシャールはそれだけでは満足せず,さらにナポリ州の剥奪を企てました。その結果,ナポリ伯爵家との停戦協定を破ることになり,続く戦争も傭兵を雇う黄金が残っていないため決着には約2年間を要しましたが,それでも1094年8月4日にはナポリ州の剥奪に成功し,祖父からの悲願であったナポリの完全征服に成功したのでございます。

3-3 第一回十字軍への参加

 名実共にカプア公爵家の当主となり,さらなる野心に燃えるリシャールのもとへ,1096年9月11日にある知らせが届きました。ローマ教皇が全キリスト教世界に,イェルサレムへの十字軍を呼び掛けたのです。  当時のカプア公爵家は,せいぜい700人程度の兵士を動員できる小勢力に過ぎませんでしたが,リシャールはいち早くこの十字軍に参加し,ティベリアスを占領するなど目覚ましい活躍を見せたのでございます。  十字軍全体でも戦勝が続き,一時はリシャールがイェルサレム王に任じられるのではないかとの予測も囁かれたほどだったのですが,戦争が長引くと,アビシニアへのジハードで本国を留守にしていた,1万を超えるシーア派カリフ領の主力軍が戻ってきたのでございます。  十字軍自体は,遅れて参戦してきた神聖ローマ皇帝の活躍もあり勝利に終わりましたが,いずれも大軍である皇帝軍とシーア派カリフ軍の激突に伴い,十字軍に対する神聖ローマ皇帝の貢献度がそれまで1位だったリシャールを上回るものと判断されてしまい,結局1101年11月15日に十字軍が終結した際,ローマ教皇からイェルサレム王に任じられたのは,リシャールではなく神聖ローマ皇帝だったのでございます。  リシャールは歯噛みして悔しがりましたが,この十字軍への参加によりリシャールは多大な威信と信仰を手にし,新興国であるカプア公爵領は一躍キリスト教世界にその名を知られることになったのでございます。

3-4 サラセン人との戦いと領土拡大

 ナポリ州を手にしたとは言え,リシャールはわずか2州しか持たないカプア公爵領の当主に過ぎません。一時はリシャールもシシリー王家への従属を検討したのですが,それを翻意させたのは皮肉にもサラセン人たちでした。  わたくしの実家であるアプーリア公爵ハウテヴィーユ家は,9州を領有して前述のとおりシシリー王を名乗っていましたが,そのうち王家の直轄領はアプーリア州のみであり,家臣達の反乱やアフリカ王・サイレナイカ太守といったイスラム勢力の侵攻に対し苦戦を続けており,カプアに対し戦争を仕掛けてくる余裕などなかったのです。  十字軍から戻ってきたリシャールはこの現実に目を付け,シシリー王家への従属を見送っただけでなく,1102年4月9日には,シシリー王家がイスラム勢力に奪われたレッチェを自ら奪回し,1110年11月25日には同じくサレルノをイスラム勢力から奪取するなど,イスラム勢力と戦いながら着実に自らの勢力を広げていったのでございます。  また,1107年2月3日には,リシャールの長男ヨルダンの結婚も決まりました。わたくしの曾孫にあたるヨルダンの結婚相手に選ばれたのは,フランスの北部に領地を持つモルテン女伯爵の叔母にあたるリトゥエーズ・デ・コンテヴィーユでした。  女だてらに「不世出の戦略家」と称される変わり種の女性ではありましたが,当家と同じノルマン人であること,天才と呼ばれる才女であり管理も17あるというのが決め手となりました。

4 シシリー王への道(1113~1122)

4-1 シチリア島の征服とホスピタル騎士団の奮戦

 レッチェとサレルノを獲得しても,リシャールの所領はまだ4州。しかも,レッチェとサレルノはイスラム勢力から奪った領土であり,特にサレルノ州は住民の大半がイスラム教スンニ派に改宗していたため,税収や兵力の動員を期待できるのは当分先のことでした。  戦争ではガレー船を活用した機動戦術で優位に立っていたとは言え,この時点でもシシリー王家は,まだリシャールの手に届く存在ではなかったのです。その情勢を一気に変えたのが,いわゆるホスピタル騎士団の成立でした。  1113年1月8日,聖地イェルサレムの防衛や巡礼者たちへの医療活動を目的としたホスピタル騎士団が発足し,2月1日にはヘブロンにその本拠地が設けられました。ホスピタル騎士団は,重装騎兵を中心とする群を抜いた戦力を有するだけでなく,他のキリスト教国であっても十分な信仰を持つ当主であれば,その信仰と引換えに異教徒との戦いに参戦してくれるというのです。  1114年,ホスピタル騎士団を雇うことに成功したリシャールは,早速シチリア島のパレルモ・シェイク領に聖戦を布告しました。カプアからパレルモへは海を渡った方が早いのですが,カプア公爵領には7700人のホスピタル騎士団を載せられるほどのガレー船が存在せず,ヴェネツィア海軍を雇う金銭的余裕もない,それどころかカプア公爵領の収入ではホスピタル騎士団に支払う報酬もろくに賄えないという状況でしたが,それでもリシャールは一気に賭けに出たのです。  この賭けは大成功でした。カプアからパレルモまで陸路を行くホスピタル騎士団は,移動が遅くリシャールをやきもきさせましたが,パレルモに到着したホスピタル騎士団は,まさに当たるべからざる勢いで異教徒たちを蹴散らし,1114年8月20年には,パレルモのシェイクを追い出しパレルモ州とシラクサ州を獲得。  まだ余力があると判断したリシャールは,シチリア島の残るイスラム勢力にも続けて聖戦を仕掛け,同年11月13日にはトラパニを獲得,翌1115年1月18日にはギルゲンティを獲得し,イスラム勢力をシチリア島から追い出すことに成功しました。もっとも,戦闘のすべてはホスピタル騎士団に任せきりであり,通常はできない連続の宣戦布告が出来たのも,動員していたのが傭兵であるホスピタル騎士団だけという状況を最大限に利用してのことでした。  なお,パレルモのシェイクはシーア派であり外交的にほとんど孤立無援の状況であったものの,スンニ派であるトラパニとギルゲンティのシェイクを攻撃したときには,他のイスラム勢力も敵側に参戦を表明してきました。それが大きな問題にならなかったのは,ホスピタル騎士団がすべての城市を強襲で陥落させ,他のイスラム勢力に介入の時間的余裕を与えなかったですが,この戦いでリシャールは,一気に領土を倍増させると同時に,最も騎士団使いの荒い男という陰口を叩かれることになりました。  なお,シチリア島の聖戦で無傷だったカプア公爵領の正規軍は,その後神聖ローマ帝国から独立していたアンコーナ共和国に攻め入り,1117年4月7日にアンコーナ州を獲得しています。リシャールは,一旦アンコーナ州の支配を現地の女男爵に任せ,その直後にその女男爵を暗殺するという方法で,アンコーナを直轄支配下に置いています。

4-2 タラント州の奪取とシシリー王位簒奪

 歴史的な慣習上,シシリー王国に属するとされるのは17州であり,そのうち9州を獲得すればシシリー王を名乗ることが出来ます。リシャールは,シチリア島の聖戦に勝利した時点でそのうち8州を手に入れていましたが,残る9州のうち8州はシシリー王の領土であり,1州はイスラム勢力であるマルタ・シェイク領でした。  ガレー船の数が足りないため,ホスピタル騎士団を使ってマルタ島を攻めるのは不可能。かと言って,独力でマルタを攻めるには兵力が足りない。悩んだリシャールが決断したのは,それまで友好関係を保っていたシシリー王国に対し州の要求権を捏造し,その領土を奪うことでした。  慎重に時期を窺った末,リシャールはシシリー王国がイスラム勢力と戦っている最中に,シシリー王国を攻撃するという禁断の策に打って出ました。この策は成功し,リシャールは1122年8月13日,シシリー王国からタラント州を奪取。同年11月10日にはシシリー王位を簒奪してシシリー王リシャール1世を名乗り,リシャールはなんと一代でカプア伯爵からシシリー王に登り詰めるという快挙を成し遂げたのでございます。

5 シシリー王リシャール1世《敬虔王》(1122~1142)

5-1 ドレンゴット家の家庭内事情

 これまでに述べてまいりましたとおり,わたくしの愛する孫リシャール・ドレンゴットは,その素晴らしい頭脳でドレンゴット家の大躍進を実現致しました。ただ,女の身でこのようなことを申し上げるのもはしたないと思うのですが,リシャールは祖父譲りの好色により,いわゆる下半身でもドレンゴット家の繁栄に大きく「貢献」してしまったのでございます。  リシャールは王妃カミーラとの間に,跡継ぎの長男ヨルダンのほか,ヴェローナ公爵に嫁いだ長女コンスタンス,次男ジェラール,下ロレーヌ公爵の婿となった三男アモリー,ベネヴェント公爵に嫁いだ次女フェリシア,ロンバルディア公爵に嫁いだ三女オリエル,パヴァリア公爵に嫁いだ四女アリソン,合計7人の子をもうけました。このうち,アモリーは普通婚姻であったため,その子孫はドレンゴット家の一員として下ロレーヌ公爵家を継ぐことになりました。  ただ,リシャールはそれにとどまらず,一族のロベール・ドレンゴットの妻であったエリセンデ・ド・アヴランチェを愛人とし,その子リシャールは上ロレーヌの女公爵と結婚(普通婚姻)。エリセンデとの縁が切れると,今度はその娘のグリセルダ・ドレンゴットを愛人にし,トルフ(プロヴァンス女公爵と結婚),ベロール(マフディア伯,シシリー王国元帥)という2人の子をもうけました。  不義の子を3人も作ってしまった上に,子供を産ませた2人の愛人はいわゆる母娘どんぶり。しかもリシャールは,3人の子を最初は非嫡出子として認知していたのですが,非嫡出子のままでは結婚させるときに婿養子にするしかないと分かると,3人とも準正嫡出子に格上げしてしまいました。  そのため,王妃カミーラとの夫婦関係は破綻し,カミーラは1125年7月23日に54歳で死去。まさしく憤死と申し上げるしかない最期でした。その後リシャールは,同年7月30日にイザベラ・ディ・スポルトと再婚。1140年にイザベラが亡くなると,次はマリア・トルモドスダッター・クロヴァンと再婚。お二方とも管理能力に優れた女性でしたがリシャールとの間に子はなく,一方でリシャールは後妻を娶った後も若い愛人を作り漁色に励んでおりました。  一方,リシャールの長男ヨルダンは,妻リトゥエーズとの間に娘を1人もうけた後長い間子が出来ず,子が出来ないのは領地がないせいだと考えたリシャールは,長男ヨルダンをトラパニ伯爵に任じ,それでも子が出来ないときはリトゥエーズの殺害も考えたほどでしたが,彼女は1125年3月4日,34歳にしてようやく長男ラドルフを出産し,何とか殺害の危機を免れたのでした。

6-2 相次ぐ戦争と謀略

 一方,シシリー王となった後も,リシャールの活躍は止まりませんでした。1124年に聖職者の自由叙任法を成立させたほか,サレルノ・パレルモ・シラクサがカトリックに改宗し動員できるガレー船の数が増えると,1126年12月10日にはホスピタル騎士団を使ってマルタを獲得。  1130年11月25日には,ホスピタル騎士団のほかアフリカ王を滅ぼし,チュニスとマフディアを獲得。1133年6月17日にはチュニス太守領を滅ぼし,ビゼルト,メジェルダ,カイルワーン及びゲーブを獲得。 そして,1132年12月10日には,ローマ教皇が第2次の十字軍であるカスティール十字軍を提唱しました。当時のイベリア半島は,ナヴァラ公爵領以外のすべてがイスラム勢力に占領されているという悲惨な状態でしたが,リシャールはチュニス太守領と戦争中の身であったにもかかわらず,1118年に発足していたテンプル騎士団を動員してこれに参戦。敵地でうろうろしている友軍を尻目に,強襲でイスラムの城砦を次々と陥落させ,今度は確実にカスティール王の座を手中にしたのです。  1134年6月3日には,神聖ローマ帝国から独立していたフィレンツェ伯爵を暗殺し,その一族である自らの家臣にフィレンツェ伯爵を継承させることにより,戦争によらないでフィレンツェを手に入れるという荒技も実現させています。なお,リシャールは同じ方法で神聖ローマ帝国の領土を手に入れることも画策したのですが,神聖ローマ帝国の領土に対しこの策は通用しない(暗殺を成功させても,逆に家臣の領土が神聖ローマ帝国の領土となってしまう)ことが分かり,泣く泣く断念しています。  その後,フランスの内紛に乗じてサルディニア島アルボニア州の領有権を主張し,フランス王国にも宣戦。騎士団を使えないので苦戦しましたが,1139年4月25日には,何とかアルボレアの奪取に成功しています。 なお,自らは「大王」の渾名で呼ばれることを望んでいたリシャールでしたが,1141年5月31日,シシリー王リシャール1世に贈られた渾名はなんと「敬虔王」。たしかに十字軍や聖戦へ積極的に参加し,キリスト教世界の発展に尽くした功績があるとはいえ,この渾名にはリシャールも苦笑するしかなかったのでした。

5-3 未回収のシチリア

 一方,王号を簒奪した後の旧シシリー王家は,アプーリア公爵家とそこから独立したベネヴェント公爵家に分かれていました。2州しか持たないアプーリア公爵家については,1136年10月2日に戦争でアプーリアを奪い,翌1137年12月13日に女公爵アリシェが服属することで決着しましたが,残るベネヴェント公爵家はカラブリア公爵も兼ねて5州の領土,3州の直轄地を有しており,シシリー王リシャールにも服属しようとしませんでした。  しかも,リシャールはシシリー王となる前に,自分の次女フェリシアをベネヴェント公爵家に嫁がせており,同公爵家とは同盟関係が成立していたことから,やりたい放題のリシャールも同盟を破棄してベネヴェント公爵領に侵攻するのは,さすがに良心の咎めがあったのでした。自分の子や孫の世代になれば同盟関係も解消されるので,ベネヴェント公爵との戦いは将来世代に委ねようという考えでした。  ところが,1142年4月7日,そんなリシャールの良心を打ち砕く悲劇が発生します。トラパニ伯爵としていくつかの領地管理を任せていた長男ヨルダンが,父に先立って53歳で死去。決して早世といえる年齢ではなく,むしろリシャールが長生きし過ぎたのですが,信頼していた長男の死にリシャールは大いに嘆き,そのやり場のない怒りは,なぜかベネヴェント公爵領に向けられました。  1142年6月21日,リシャールは自分の孫にあたるベネヴェント公爵トゥロール2世の暗殺に成功。同盟関係が解消されているのを確認すると,即日宣戦を布告しました。シシリー王国軍の電撃的攻勢の前に,ベネヴェント公爵はたちまち主力軍を壊滅させられて屈服し,同年10月4日にメッシーナを割譲したのですが,これがリシャールにとって最後の戦いになりました。  それまで健康を維持していたリシャールは,メッシーナを征服した直後に発病。さらに肺炎を発症し,同年11月15日,72歳で天に召されました。メッシーナを征服してからわずか1箇月後のことでした。敬虔王として築いた名声と威信もさることながら,一代で伯爵からシシリー王兼カスティール王に登り詰めたそのあまりにも強烈な生き様は,後々まで多くの劇画や伝記などで語られることになるでしょう。


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