サヴォイア女公ブリュンヒルデの長男として生まれる。父ルドルフはレンツブルク家の出身で、上ブルゴーニュ公爵ベルトホルトの長男である。1193年に母が死去し、37歳でサヴォイア公爵領を継承した。妻アガテはライネック家の出身。上ブルゴーニュ公ベルトホルトの死にともない、レンツブルク家の嫡孫として上ブルゴーニュ公爵領をはじめ5つの伯爵領と3つの男爵領を継承した。アドルフの時代からは神聖ローマ皇帝や周辺諸侯への通信にブルグント王の署名が使用されていることから、王号を認知されていたものと考えられている。よって本稿ではブルグント王アドルフとして扱う。
この頃にはレンツブルク家の支配の及ぶ領地は広大なものとなっていた。領地のいくつかは封臣を通して支配されるようになった。ブルゴーニュは二代目当主ルドルフの時代よりルドルフの弟ギゼルベルトの一族が伯爵を世襲して、今はレンツブルク=ブルゴーニュ家と呼ばれる支族を形成してた。サルッツォ伯とモンフェラート伯はサヴォイア公爵位を得て仕えるようになった家臣である。アドルフの代には新たに3人の伯爵が誕生した。リヨン伯に封ぜられたボードゥイン・フォン・レンツブルクはレンツブルク=ブルゴーニュ家の庶流の出身。ヌーシャテル伯に封ぜられたレオポルト・フォン・メッツはレンツブルク家譜代の重臣メッツ家の出身。ジュネーヴ伯のラインハルトはアドルフの嫡子である。
赤枠はブルグント王国の正当な領地
神聖ローマ帝国はイタリア・イベリア戦争を経験した後も、超大国としての地位は揺らいではいなかった。最大のキリスト教国として、イベリア半島や北アフリカから異教徒を駆逐する機会を虎視眈々と狙っていたのである。
我が国も帝国の一角を占める重要国になったのだ
1207年12月、神聖ローマ皇帝ペーターが44歳で死去した。何者かに暗殺されたというのが定説だが、犯人については諸説あり、現在でもはっきりとしていない。これにより23歳の皇太子ロタール・ウードがロタール・ウード3世として皇位に就いた。ロタール・ウード3世はイタリア・イベリア戦争により低下した帝国の権威を復活させるべく、国内的には権威法の改定を行い、対外的には1208年にキレナイカへの聖戦を起こしている。
何者の仕業だろうか
1208年5月にモンフェラート伯コティルダが死去すると、伯爵位がバーデン公家臣のもとへと継承されるという出来事が起きた。アドルフはサヴォイア公爵領の慣習的領地として正当性を掲げてモンフェラートの返還を求め、バーデン公に宣戦した。戦いは1年半続き、モンフェラートの領有権を取り戻している。
寸土たりとも譲るわけにはいかない
アドルフはまた、1211年5月にはブルグント王国統一の大義名分のもとドーフィネ公からフォレ伯爵領を獲得している。
王国の領域を全て回収するのだ
国威の回復に意欲を見せていたロタール・ウード3世であったが、腸チフスに罹患して、1215年4月に31歳の若さで死去した。皇太子で10歳のペーターがペーター2世として皇位を継承した。幼帝の即位で帝国の軍事行動はしばらく停滞することになった。
これからという時に、おいたわしや
また、遙か東方の国にヨハンネスなるキリスト教徒の王が現れ、異教徒を蹂躙しながら西へ向かっているという噂が西欧社会に広まり始めたのはこの頃であった。
言い伝えはまことであった
1221年2月にアドルフの嫡子で、ジュネーヴ伯のラインハルトがドーフィネ公に封じられた。王国の家臣では最初の公爵となった。
やっと俺の出番だ
1225年10月23日、アドルフは老衰で死去した。70歳であった。公式にブルグント王を名乗った最初のレンツブルク家の王とされ、王国の礎を築いた。統治者としての業績はサヴォイア公時代のほうが華々しく、グラウビュンデンとロンバルディアの2州はアドルフがサヴォイア公の時代に獲得した領地であった。
それほど短い治世ではなかったのですが、特筆すべき事があまり起こらずに終わってしまいました。