Almoravid朝に対して奇跡的な勝利を挙げたAfrica王国、 しかし冷静になってみれば未だ領国は10プロビ未満で、Almoravid朝に反撃されれば、 途端に国が吹っ飛ぶ弱体国家であることには変わりありません。
幸いにも先の戦いで野戦軍を殲滅されたAlmoravid朝は、 同じく野戦軍を殲滅されたToledo太守とのファニーウォーをさらに5年間続けた後、 スルタンIsmailの戦死によって混乱状態となりました。
後、Tamim Iの為すべきことはde jure Africa王国領に当る、 リビアのTripotania,Cyrenica両公領の回収のみです。
ヨーロッパではカソリックの歪んだ宗教的情熱の高まりから、 遂にJersalemに対する十字軍が宣言された! もっとも、お相手はシーア派カリフのFatimid朝なので、 大部分のスンニ派は介入することができないのですが...
第一次十字軍はいわゆる全盛期シーア派カリフの無双状態で、 聖地Jersalemに乗り込んだキリスト教徒の巡礼団もとい強盗団は、 マルムークらFatimid朝軍精鋭部隊によって挽肉にされていた。
聖地Jersalemに続々と殺されに向かうガレー船団を横目に見て、 Tamim Iは地団駄を踏んだ。
「ああ、自分も聖地防衛の偉大なる戦いに是非とも参加したい! あのキリスト教徒の強盗団を奴隷にして売れば、一体どれ程の金になることか... シーア派カリフよ、なぜあなたはシーア派なのか!」
居てもたってもいれなくなったTamim IはSardina島のCagliari伯国に一人ジハードを宣言。 教皇は助けを求めるCagliari伯に援軍を約束したものの、十字軍で手勢を失いそれどころではなく、 Cagliari伯国は陥落した。
この頃よりTamim Iはthe Wolf 狼王と渾名されるようになる。 ところでチュニジアに狼っているんですかねぇ。
Tamim IはLustfulの特性を持つため息子が九人と多く、 息子全員が成人した今となってはその処遇に苦慮するようになっていました。 しかも息子達は皆、無能なくせに母親と結託して領地を要求する傲慢ぶり、 一家に対する許されざる裏切りに他なりません。
そうこうしているうちに長男がTamim Iの誘拐を計画していることが発覚。 投獄され独房で謹慎処分となりました。さらに五男も謹慎処分に。
残りの息子達はTamim Iの指揮する遠征に従事するも軍事能力が低いため、 たちまち二人が戦死。つまらない陰謀を企てて露見したり、 落ち武者狩りで戦死する無能な息子達にはもううんざり...
その一方Rum王国に嫁いでから僅か数日で帰還した娘は、またもや夫に先立たれ帰国。 生涯前線現役をはる父の逞しい背中を、娘はいつしか潤んだ瞳で見つめるようになり...
だめだ。それだけはいいけない。 娘は三度目の嫁入りに送り出された。幸い不義の子は生まれませんでした。
Almoravid朝は戦死したIsmailの次代スルタンが成人したものの、 彼もなぜか四人の妻全員がただの町娘だった。
「じゃあSeville貸していただけませんかねぇ、宣戦布告」
傭兵頼みだが二年の戦いの末、またもやAfrica王国の勝利。 豊かなSeville公領を手に入れた。
しかしここでTamim Iの命はつきた。 A.D.1102 Tamim I、遠征より帰還した直後、老衰死。 王国は生き残った7人の息子に委ねられました。
Tamim Iより次期スルタンと指名されていたのは次男al-Muizzでした。 彼は軍才は無いものの商才には恵まれ、そこを評価されていました。 イスラム国家は継承法が「最も領地の多い息子が父親の持つ全ての称号を受け継ぐ」という オープン継承法(トルコ式継承法ともいう)一つしかないので、 最も有能な息子に最も多くの土地を分与することで、土地の流出を気にすることなく後継者を自由に選べます。
「大軍を養うのにも、傭兵を雇うのにも、称号を創設するのにも、 暗殺者を送りつけるのにも、結局必要なのは金。」
「国王の臣下として優秀な将軍がいくら居ても足りないが、 国王自身が優秀な将軍である必要は無い」
それが生涯前線現役をはったTamim Iの結論でした。 彼の脳裏には僅か16歳で戦場に散り、国を混乱に導いた あのRumのスルタンのことが記憶に残っていたのでしょう。
さらにTamim Iは国家百年の計としてある驚くべき計画を進めていましたが、 そのことを人々が知るようになるのはもっと先のことでした。
さて、al-Muizz IIには他に6人の兄弟がいましたが、 al-Muizz IIは寛大にも彼らに土地を分与すると、 兄弟一同はal-Muizz IIに敬服し、以後生涯の忠臣たることを誓いました。
兄弟争いは恐ろしいものですが、王朝安定のために必ずしも兄弟全員を殺す必要はありません。 息子の代になるまで土地の分与を我慢できればの話ですが。
今後の目標は王室の権威を四段階目まで上げることで、 そのためには威信2500、信仰値250必要です。 とりあえず傭兵家業を続けます。
ああ、やはり君主が前線に立つのは危険ですね。 Byzantine皇帝は身代金を仕度できず、獄死。 皇帝には娘一人しかおらず、コムネノス家はその娘を最後に帝位を失いました。
威信と信仰値のため傭兵家業を行い、ラマダーンや武道会を開いて遊んでいると 第二次十字軍が宣言された。丁度Fatimid朝は幼いカリフに対する反乱が勃発中。 逆境とはいえ、前回十字軍と比べ参加者が半分しかいないし、 まさかあのFatimid朝が敗れるはずは...
なんということでしょう。第二次十字軍はキリスト教徒の大勝利に終わり、 Fatimid朝は聖地Jersalemを失いました。 さらに驚くべきことに、十字軍成功で有頂天となった教皇は聖地Jersalem一帯を、 教皇領に属する司教国家とすることを宣言。これに憤慨した十字軍戦士は皆帰国しました。
成人したシーア派カリフは状況の変化を敏感に読み取り、直ちにキリスト教徒への反撃を宣言。 失ったJersalem伯称号をかけ、教皇に勝負を挑むも重症を負い、19歳の若さで戦没しました。 Fatimid朝は再び幼いカリフが即位し、混乱状態となりました。
「おおシーア派カリフよ、なぜあなたはスンニ派ではないのか、もしそうなら今すぐ馳せ参じるというのに...!」
al-Muizz IIも居てもたってもいれなくなり、Sardina島北部を領有するGenoa共和国に一人ジハードを宣言。 幸い教皇も神聖ローマ帝国も戦争を抱えていて...ん、ハサシン?
なぜハサシンがチュニジアに...? それでもって今、となりでぶっ倒れて死んだのは誰?まあいいや。
イベリアおよびRum王国での傭兵家業を続け、王室の権威を四段階目通過に成功。 直ちにAndalusia王国の称号を創設し、de jure Andalusia王国領の回収を始めました。 さらにAlmoravid朝からAlgrave公領を奪い、イベリア半島からAlmoravid朝の完全駆逐に成功。 Almoravid朝とAfrica王国の戦力比は今や逆転しつつある。 いよいよ俺の時代が来たか...そう思ったその時でした。
「ぺっ...!おやこれは血かな?痰に血が混じっているじゃないか」
al-Muizz IIは自分でも気づかぬ内に不治の病に冒されていた。 体調は急激に悪化し、al-Muizz IIももはやこれまでと観念したのか、 食を絶ち自ら死を選ぶことにした。
A.D.1123 al-Muizz II、肺炎により病死。
なおAfrica王国が度々その窮地を救っていたRum王国は、 al-Muizz IIの死の前年、つまらない内乱により旧宗主国であるSeljuk朝同様、わずか40年で滅亡しました。
その後Seljuk家の末裔がRum王国を(イベントではなく正規の方法で)再興したものの、 旧Rum王国領の多くがByzantine帝国に奪還されており、 Rum王国の軸足はむしろ旧Persia王国領内におかれていました。