AAR/まったりホーエンシュタウフェン家

まえがき

まさか、皇帝への反乱の結果がこんな結末になるとは私の読みが甘かったとしかいいようがありません。しかしながら王位を失ったことにより面倒な戦いからは開放されました。あわよくばアフリカ王復帰を狙いつつ様子を見守っていきたいです。

Duke Hartmann II of Genoaの時代

新当主の紹介からである。なお、大きな都市だしということでなんとなくジェノバに首都を移し、ジェノバ公爵を第1称号にしている。

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なお、アフリカ王位がなくなったことによりSwabia公爵領には帝国方が適用されることになった。これにより他の条件がそろえば長子相続への変更が可能になる。機を見て変更したい。 ここで、どれくらい領土が減少したかなどを紹介すればいいんだろうけれど筆者はそんな気分になれない。よって大変申し訳ないが新当主紹介のスクショから現有領土については察していただきたい。もしかしたら気が向いたところで紹介するかもしれない。

1231年12月 ノルウェー王によりDaxが占領され第6回十字軍が終結する。

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1233年2月 当主Hartmannが成人する。ホモになってしまっている。

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1235年4月 Bordeauxに対する第7回十字軍が提唱される。

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ここで、未だに続いているアフリカ王とHRE皇帝との戦況について確認しておく。一時期アフリカ王はそのスコアを97%までにし、皇帝を追い詰めるがさすがに皇帝もしぶとく76%まで戦況を戻している。筆者は最終的には白紙和平になるような気がするが、果たして結末はどうなることやら。

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1236年9月 CarinthiaとMeissenの両公爵が突如皇帝に対し反旗を翻し、アフリカ王に加勢。これにより勝負は決し、Philipp von Hohenstaufenが皇帝となった。

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帝国内の情勢が落ち着いたところで西ヨーロッパの勢力図を紹介したい。 フランスは相変わらずバラバラ、イスラム勢はピレネー山脈を越えてその領土を保持している。

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1237年9月 Upper Lorraine公爵からアフリカ王への反乱に協力して欲しいとの要請。勝てるとは思わないが承諾し、参戦する。

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1238年2月 当主はホモであるものの、ハンガリー王女Agnesを妻に迎える。

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1240年6月 ブルゴーニュ公領Dijonのclaimを手に入れる。対アフリカ戦終了後に機を見て宣戦の予定。

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ところで、援軍として参戦しているアフリカ王国戦であるが、反乱に参加する諸侯が思いのほか多く戦局は優勢に進んでいる。アフリカ王国には公爵位を持つ封臣が14いるのだがそのうち7公爵家が反乱に加わっている。

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1247年11月 第7回十字軍が成功裏の下終結する。

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1248年12月 未だアフリカ王とは戦争中であるが、ブルボン公爵(ブルゴーニュ公爵と兼任)に隙ありということでDijonの支配権を要求し、宣戦。

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1251年8月 ブルボン公爵降伏、Dijonを手に入れる。

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同年10月 結婚から10数年、待望の男子誕生。Friedrichと名づける。

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1253年9月 Upper Lorraine公爵がアフリカの王冠を獲得し再びホーエンシュタウフェン家からアフリカ王が選出された。またこの混乱に乗じてジェノバ公爵家はアフリカ王の支配を離れHRE皇帝の直属の封臣となっている。

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だんだん家系図が複雑になってきたところで少し整理して紹介したい。現在は大体のところ初代アフリカ王Philipp Iの流れを汲む家系と2代目アフリカ王Reinhard Iの家系に大別できます。ちょっと見づらいとは思いますが、スクショを加工したものがあるのでご覧ください。 まずはPhilipp系から。HRE皇帝が出たのがこっちの家系です。

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次はReinhard系 こちらはアフリカ王の家系といえるでしょうか最近ではLuitpold I現国王が傍系ではありますが、他家から王位を取り返しました。なお、○内の数字はアフリカ王として何代目かを示しています。残念ながら5代目と6代目は他家から輩出されています。

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1253年9月 継承法を長子相続制に変更。

1254年2月 次男Hartmann誕生

1255年4月 長女Amalie誕生。ホモでありながら3人目。

1255年4月 Thouars(ポワトゥー地方)にたいする第8回十字軍が提唱され、Hartmannは即十字軍の派遣を決定する。

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またしても目標地については先を越されており足踏み中。十字軍とは違う名目の戦争なので終わるまで待機。

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1260年1月 BrythainとTangiersとの戦争が終わったところで講和。第8回十字軍は終結する。

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この戦争によりポワトゥー公爵位を手に入れたが、ポワトゥー地方で唯一ジェノバ公爵の宗主権下に入っていないのがBrythain王国に属するPoitiersである。

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ところで、そのBrythain王国であるが王号を名乗っているくらいだから一時はそれなりの勢力を有していたと思われるが、現在は所領1と小伯爵家と変わらない勢力しか有していない。よってPoitiersの支配権を主張し、宣戦することにする。

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1261年3月 Brythain王国降伏。なんなくPoitiersを手に入れる。

1262年6月 Sultan of Mauretaniaが内乱状態にあることから、かの国の飛び地であるLimousinの支配を目指し、宣戦する。

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1266年7月 Upper Lorraine女公爵からアフリカ王への反乱のお誘いが来たので承諾しておく。私戦不可になってるからこの内乱に乗じて自分からアフリカ王に宣戦できないのは痛い。

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どうやらホーエンシュタウフェン家以外から新国王が選出されたのが原因のようです。

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1268年7月 Sultan of Mauretaniaに勝利する。

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ところで、Hartmannはポワトゥー公爵位を得ている。ここで筆者はポワトゥー公爵を第1称号にすれば、帝国法は適用されずフランス王国法の適用範囲内になるため未だLinitedと王権の弱いフランス王国法の適用範囲内になれば私戦が可能になるという、若干プレイヤーチートっぽいことを思いつく。今頃思いついたのかと思われる方も多いかとは思うが、ともかく今後Hartmannはポワトゥー公爵を第1称号とする。しかし、最初からこれをわかっていたらアフリカ王への反乱の誘いは断って自分で宣戦すればよかったような気がする。

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アフリカ王戦に参戦はしているものの名目上の参戦だけで特に戦う気はなくだらだらと時は過ぎていき1273年を迎えた。他に書くこともないので世界情勢でも簡単に紹介しておきたい。

まずは西ヨーロッパから紹介する。フランス、イングランドが分裂状態である。ただし、イングランドの一部を支配するポーランドは、ポーランド王がルーシ、デンマーク、リトアニア、イングランドの王を兼ねており大国である。またブルターニュ半島は、Sultan of Mauretaniaの支配下にある。

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次は東欧・北欧である。スウェーデンがGolden Hordeに屈している。ただ、ポーランドが大国であるので防壁の役割を果たしてもらいたいところ。

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最後にビザンツ・中東である。ビザンツは内乱中。

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1273年12月 Sensのclaimを得て即日宣戦。

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1274年2月 Bearnに対する第9回十字軍が提唱される。

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1275年9月 フランドル公爵降伏。Sensを手に入れる。

1276年2月 第6回十字軍が衰退。約2年で引っ込めてしまうとは思いのほか早かったという印象。

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1278年1月 Sultan of Mauretaniaがフランス王国ほかいくつかの国と戦争状態にあることからガスコーニュに対するHoly Warを宣告。

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1279年6月 どうやら対アフリカ王国戦はこちら側の勝利に終わりホーエンシュタウフェン家が再び王冠に返り咲いた。。ただ女王だからこの次はホーエンシュタウフェン家から王冠は離れてしまうんだろうな。まぁそうなったら自ら王冠を奪いにいきましょう。

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気がつくと画像右下部からもわかるとおりHRE内では結構な数の諸侯が反乱を起こしたいる様子。なお反乱の詳細について細かな解説は行いません。ご了承下さい。

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1279年10月 Sultan of Mauretania降伏。ガスコーニュ地方の一部を手に入れる。

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1280年1月 HREのCourt Chaplainに就任する。

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1280年6月 Sultan of Al-Andalusが戦争中ということでブルターニュに対するHoly Warを宣告。

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1282年1月 Sultan of Al-Andalusが降伏し、ブルターニュ半島を手に入れる。

同年9月 Gentに対するclaimを手に入れ保有するオルレアン公爵に対して即日宣戦。

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1283年8月 オルレアン公爵降伏、Gentを手に入れる。

以前から気にはなっていたのだが、Schwaben伯領の都市Wangenがいつの間にかルクセンブルグ公爵家の支配下に入っていたのでこれを当方の支配下に再び戻すため、1284年2月宣戦し、同年10月降伏させる。

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ここでAARの話の筋とは全く関係ない話題ですが、本AARのトップページには「~の時代」というようにプレイした当主の治世ごとにまとめて書いているわけですが、よく見ると初代の題名が「Count Friedrich of Swabenの時代」となっております。何をいいたいかといえば本来Schwabenと書くべきところをSwabenとしていたわけです。さっきSchwabenって単語を使ったときに気付きました。他はこっそり直したのですがそこは直せませんでした。恥ずかしい話ですが、無理に直さなくてもいいかなということでこのまま進めます。

恥ずかしい話が終わったところで話を戻します。 1285年7月 Auvergneのclaimを得て、即フランドル公爵へ宣戦。1287年8月フランドル公爵降伏。

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1288年2月 Sultan of Al-Andalusが内乱状態であることからアキテーヌに対するHoly Warを宣告

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1289年6月 敵降伏アキテーヌ公領の一部を手に入れる。

同年7月 相続により失っていたSaintongeの宗主権を回復すべく、Carinthia公爵へ宣戦。

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今思うと晩年自分の死期を感じていたのか、勢力的に活動していたHartmannが1289年10月にお亡くなりになったようです。アフリカの王位は得られなかったもののフランス方面に領土を広げ、再び大国への道を切開いたといってもいい治世でした。

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